第1章 アルジュナの悲嘆のヨーガ

バガヴァッド・ギーター Bhagavad Gita Ch.1

更新日:2020年11月12日

バガヴァッド・ギーターを気ままに読み、解説するシリーズ。

デーヴァナーガリー表記、音表記、日本語訳、解説がまるっと載っているといいなと思い書き始めました。
ちょこちょこ読んで、書き加えていきますし、その時々で感じ方も変わる、そんな自分の内観の記録でもあります。

デーヴァナーガリーの打ち間違えがあったり、何か思うことがあればお気軽にコメントもらいつつ、一緒に学びが深まればいいなと思って書いてます。

arjuna viṣāda yoga(アルジュナの悲嘆のヨーガ)と名付けられた第1章。
戦いに臨むアルジュナの迷い、そして悲嘆が描かれています。

たくさん人物名が出てくるので、この冒頭で読むのを挫折してしまう人も多いですね。
まずは「いろんな人が出てくるんだなー」ぐらいの気持ちで。

1-1

धृतरष्ट्र उवाच ।
धर्मक्षेत्रे कुरुक्षेत्रे समवेता युयुत्सवः ।
मामकाः पाण्डवाश्चैव किमकुर्वत सञ्जय ।। १-१ ।।

dhṛtarāṣṭra uvāca |
dharmakṣetre kurukṣetre samavetā yuyutsavaḥ |
māmakāḥ pāṇḍavāścaiva kimakurvata sañjaya || 1-1 ||

ドリタラーシトラは言った。「ダルマの支配する土地、クルクシェートラに、戦うために集まった、我らの一族とパーンダヴァの一族とは、何をなしたか。サンジャヤよ。」

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第1節

盲目のドリターラシトラに、千里眼を与えられたサンジャヤが戦争の状況を報告する場面から始まる『マハー・バーラタ』第六巻「ビーシュマの巻」=『バガヴァッド・ギーター』。

ドリタラーシトラの息子ドゥルヨーダナ率いる、カウラヴァ軍(悪の象徴)とアルジュナの率いるパーンダヴァ軍(善の象徴)の戦いという構図になっています。

ここにある戦いは、単に人と人との戦い、善と悪との戦いを超えて、私たちの日々の暮らしの中にある戦い、人間関係であったり、心の中の葛藤であったり、そういったもののシンボル。

生きるとは選択の連続。選択とはその瞬間瞬間において、自分の価値基準において何が善で何が悪なのかを判断する行為。それはすなわち戦いなのだと思うのです。

そんな戦いが行われるのは「ダルマが支配する土地」。善や悪といった二元的な考えに支配されているのも「私」というエゴなのだけれど、その善悪を超えてダルマに従って行動を選択することの大切さから始まるのが『バガヴァッド・ギーター』。このワンフレーズだけでしびれます。

そしてドリタラーシトラが盲目であることは、無知を示しています。知識という光を覆い隠す闇。それを払うことがヨーガの実践なのですね。

ちなみに親戚同士のこの戦い。いずれにも親戚であるクリシュナは、戦いに際して「片方の軍には私自身を、もう片方の軍には私の軍勢を与えよう。」と両軍に選択肢を与えます。
カウラヴァの100王子の長男ドゥルヨーダナは軍勢を選び、アルジュナは迷うことなくクリシュナ一人を選びました。
息子の無知な選択と真実を見抜くアルジュナの選択。この時点で戦いの結果は決まります。
そのことをドリタラーシトラは理解していながらも、息子を戦いに臨ませます。

それは水田において不要な雑草が除かれる必要があるのと同じく、ダルマの支配する土地においてはアダルマが除かれなければならないからです。


ちなみにギーターの朗読は以下のようなリズムで続きます。
ご自身でもお好きなシュローカを覚えて口ずさんで見てくださいね!

atha prathamo ‘dhyāyaḥ |
arjuna-viṣāda-yogaḥ

dhṛtarāṣṭra uvāca |
dharmakṣetre kurukṣetre samavetā yuyutsavaḥ |
māmakāḥ pāṇḍavāścaiva kimakurvata sañjaya || 1-1 ||

1-2

सञ्जय उवाच ।
दृष्ट्वा तु पाण्डवानीकं व्युढं दुर्योधनस्तदा ।
आचार्यमुपसङ्गम्य राजा वचनमब्रवीत् ।। १-२ ।।

sañjaya uvāca |
dṛṣṭvā tu pāṇḍavānīkaṃ vyūḍhaṃ duryodhanastadā |
ācāryamupasaṅgamya rājā vacanamabravīt || 1-2 ||

サンジャヤは語った。
その時ドゥルヨーダナ王は、布陣したパーンダヴァ軍を見て、師に近づき、次のように告げた。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第2節

カウラヴァ軍、100王子の長男ドゥルヨーダナが軍師であるドローナに近づき、自軍に属する猛者たちを見てくれと言います。

自分の所有(だと思っている)軍隊を軍師に見てもらうことで、なんとか自分を鼓舞しようとする場面。それは裏を返せば、ダルマに沿わない自分の軍が勝つことはないだろうという恐怖をなんとか取り去ろうとするドゥルヨーダナの虚栄なのです。

1-3

पश्यैतां पाण्डुपुत्राणामाचार्य महतीं चमूम् ।
व्यूढां द्रुपदपुत्रेण तव शिष्येण धीमता ।। १-३ ।।

paśyaitāṃ pāṇḍu-putrāṇāmācārya mahatīṃ camūm |
vyūḍhāṃ drupadaputreṇa tava śiṣyeṇa dhīmatā || 1-3 ||

師よ、このパーンドゥの息子たちの大軍を見なさい。あなたの聡明なる弟子、ドゥルパダの息子によって配陣された。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第3節

そして師に虚勢を張るにとどまらず、ドゥルヨーダナは師の非を咎めるかの如く、相手陣営の軍隊を見よと言ってのけます。

ドゥルパダの息子とはドリシタデュムナのことであり、パーンダヴァ軍の司令官。アルジュナの妻(五王子共通の妻)ドラウパディーの兄です。

ドゥルパダとドローナの間には仲違いがあったにもかかわらず、ドローナはドゥルパダの息子にも自身の持つ戦法を惜しみなく教えました。

そのあなたの教えによって今ここに敵としてのパーンダヴァ軍の軍隊がいるんですよ、先生。この戦いはあなたが引き起こしたと言っても過言ではないですよ、先生。
そう主張するドゥルヨーダナなのです。

1-4

अत्र शूरा महेष्वासा भीमार्जुनसमा युधि ।
युयुधानो विराटश्च द्रुपदश्च महारथाः ।। १-४ ।।

atra śūrā maheṣvāsā bhīmārjunasamā sudhi |
yuyudhāno virāṭaśca drupadaśca mahārathāḥ || 1-4 ||

そこには、戦いにおいてビーマやアルジュナに匹敵する勇士や、偉大な射手たちがいる。ユユダーナ、ヴィラータ、偉大な戦士ドゥルパダ、

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第4節

ここから3節にわたって、敵陣(パーンダヴァ軍)の並いる猛者たちの名前が挙げられます。

超人的な怪力の持ち主であるビーマ、弓の名手アルジュナは言うに及ばず、彼らと同じぐらいドゥルヨーダナの恐怖を引き起こす面々が並んでいます。

1-5

धृष्टकेतुश्चेकितानः काशिराजश्च वीर्यवान् ।
पुरुजित् कुनतिभोजश्च शैब्यश्च नरपुङ्गवः ।। १-५ ।।

dhṛṣṭaketuścekitānaḥ kāśirājaśca vīryavān |
purujit kuntibhojaśca śaibyaśca narapuṅgavaḥ || 1-5 ||

ドリシタケートゥ、チェーキターナ、強力なカーシ国王、プルジット・クンティボージャ、雄牛のような勇者シビ国王、

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第5節

1-6

युधामन्युश्च विक्रान्त उत्तमौजाश्च वीर्यवान् ।
सौभद्रो द्रैपदेयाश्च सर्व एव महारथाः ।। १-६ ।।

yudhāmanyuśca vikrānta uttamaujāśca vīryavān |
saubhadro draupadeyāśca sarva eva mahārathāḥ || 1-6 ||

勇猛なユダーマニユ、強力なウッタマウジャス、スバドラーの息子、ドラウパディーの息子たち。すべて間違いなく偉大な戦士である。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第6節

面々を前にして、そしてその名前を挙げていきながらだんだんと恐怖の募る、そしてまた自らを鼓舞するドゥルヨーダナの内面が浮かび上がってきます。

そんな中でもmahā(偉大な)rathāḥ(戦士)と相手への敬意を忘れないバラタの民らしさ、僕は好きです。

1-7

अस्माकं तु विशिष्टा ये तान्निबोध द्विजोत्तम ।
नायका मम सैन्यस्य ज्ञार्थं तान्ब्रवीमिते ।। १-७ ।।

asmākaṃ tu viśiṣṭā ye tān nibodha dvijottama |
nāyakā mama sainyasya saṃjñārthaṃ tān bravīmi te || 1-7 ||

一方、最高のバラモンよ、我々の優れた人々について聞かれよ。わが軍の指導者たちを、念のために申し上げる。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第7節

一方ここからは自軍の戦士たちの紹介が展開されます。

1-8

भवान् भीष्मश्च कर्णश्च कृपश्च समितिञ्जयः ।
अश्वत्थामा विराटश्च सौमदत्तिर्जयद्रथः ।। १-८ ।।

bhavān bhīṣmaśca karṇaśca kṛpaśca samitiñjayaḥ |
aśvatthāmā virāṭaśca saumadattirjayadrathaḥ || 1-8 ||

あなた御自身とビーシュマ、カルナ、常勝のクリパ、アシュヴァッターマー、ヴィカルナ、ソーマダッタの息子、

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第8節

戦いにおいて常に勝利を収めてきた自軍の戦士たちを誇らしく語ります。もちろん師であるバヴァーン(ドローナ)を筆頭に、ビーシュマ、アルジュナの異父兄弟であるカルナ、ドローナの義兄弟クリパ、ドローナの息子のアシュヴァッターマー、弟のヴィカルナ、ブーリシュラヴァー(ソーマダッタの息子)。こちらもそうそうたるメンバーです。

1-9

अन्ये च बहवः शूरा मदर्थे त्यक्तजीविताः ।
नानाशस्त्रप्रहरणाः सर्वेयुद्धवुशारदाः ।। १-९ ।।

anye ca bahavaḥ śūrā madarthe tyaktajīvitāḥ |
nānāśastrapraharaṇāḥ sarve yuddaviśaradāḥ || 1-9 ||

その他、私のために生命を捨てる多くの勇士たち、彼らは種々の武器を持ち、すべて戦いに長けている。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第9節

その他大勢の戦士たち。彼らは皆ドゥルヨーダナの求めにしたがって命を賭して戦います。つまり、言い換えれば、彼らは皆この戦いにおける死を決定づけられているということ。誰を主として生きるか、誰に身を委ねて生きるかにより、運命は決定づけられるということです。

肉体や、富や、名声や、美といったものを主として生きると滅びる運命にある。
永遠のイーシュヴァラを主として生きれば宇宙と調和し、生きることができるのです。

1-10

अपर्याप्तं तदस्माकं बलं भीष्माभिरक्षिाम् ।
पर्याप्तं त्विदमेतेषां बलं भीमाभिरक्षितम् ।। १-१० ।।

aparyāptaṃ tadasmākaṃ balaṃ bhīṣmābhirakṣitam |
paryāptaṃ tvidameteṣāṃ balaṃ bhīmābhirakṣitam || 1-10 ||

ビーシュマに守られた私たちの軍は征服されえない。一方、ビーマに守られたパーンダヴァの軍は征服されうる。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第10節

ドゥルヨーダナがお互いの軍の面々を眺め、最終的に戦いの結果を分析します。ドゥルヨーダナは先に紹介したビーマの強さを知っています。ビーマによって自分が負かされるであろうことも理解しています。

しかし、ベテラン戦士である祖父ビーシュマが自軍にいる、そのことがドゥルヨーダナに勝利を確信させ、自信を与えています。

1-11

अयनेषु च सर्वेषु यथाभागमवस्थिताः ।
भीष्ममेवाभिरक्षन्तु भवन्तः सर्व एव हि ।। १-११ ।।

ayaneṣu ca sarveṣu yathābhāgamavasthitāḥ |
bhīṣmamevābhirakṣantu bhavantaḥ sarva eva hi || 1-11 ||

そこであなた方はすべて、あらゆる行動において、各部署を固め、まさにビーシュマを守れ。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第11節

ドゥルヨーダナはこの戦いの勝敗がビーシュマにあると確信しています。前節で述べられているように、ビーシュマは歴戦の猛者。そのキーパーソンとなるビーシュマを(老兵でもあるので)強固に守る必要があると考えたのです。

また、そうすることによってビーシュマとドローナがカウラヴァ軍のために全力を尽くすよう仕向けるのです。というのも、繰り返しになりますが、この戦いは親族同士の戦いであるため、ビーシュマもドローナもパーンダヴァ軍に幾分かの愛着を持っているからです。

ビーシュマの正義の目を、守るという名目で覆い隠すカウラヴァの軍隊。

その人のためにと思い行う行為が、その人の目を覆ってしまう危険性や、その人のためにと思い行う行為が、実は自分の利のために行っている。
そんなことが多々あるのだなと考えさせられる部分です。

1-12

तस्य सञ्जनयन्हर्षं कुरुवृद्धः पितामाहः ।
सिंहनादं विनद्योच्चैः शङ्खं दध्मौ प्रतापवान् ।। १-१२ ।।

tasya sañjanayanharṣaṃ kuru-vṛddhaḥ pitāmahaḥ |
siṃha-nādaṃ vinadyoccaiḥ śaṅkhaṃ dadhmau pratāpavān || 1-12 ||

栄光あるクルの長老、祖父(ビーシュマ)は、ドゥルヨーダナを歓喜させつつ、ライオンのように雄叫びをあげ、高らかに法螺を吹き鳴らした。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第12節

ライオンのような雄叫びと、法螺貝を吹き鳴らすことで、孫であるドゥルヨーダナの心の内にある恐れや不安を拭い去ってやろうとするビーシュマおじいちゃん。負けることがわかっていながらも、これから始まる戦い、自分に与えられたダルマ(義務)を全うするのです。

また同時に、カウラヴァ軍が戦闘を告げる法螺貝を吹き鳴らすことで始まるこの戦いは、それがアルジュナたちパーンダヴァ軍にとっては受け止めるべき結果、自らが始めたものではないということを物語っています。

1-13

ततः शङ्खाश्च भेर्यश्च पणवानकगोमुखाः ।
सहसैवाभ्यहन्यन्त स शब्दस्तुमुलोऽभवत् ।। १-१३ ।।

tataḥ śaṅkhāśca bheryaśca paṇavānakagomukhāḥ |
sahasaivābhyahanyanta sa śabdastumulo’bhavat || 1-13 ||

それから、法螺、太鼓、小鼓、軍鼓、角笛が突然打ち鳴らされ、その音はすさまじいものであった。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第13節

ビーシュマの一声に呼応し、カウラヴァ軍が地を揺らすほどの音を鳴り響かせます。

1-14

ततः श्वेतैर्हयैर्युक्ते महति स्यान्दने स्थितौ ।
माधवः पाण्डवश्चैव दिव्यौ शङ्खौ प्रदध्मतुः ।। १-१४ ।।

tataḥ śvetairhayairyukte mahati syandane sthitau |
mādhavaḥ pāṇḍavaścaiva divyau śaṅkau pradadhmatuḥ || 1-14 ||

それから、白馬をつないだ大きな戦車に立つマーダヴァ(クリシュナ)とパーンダヴァ(アルジュナ)は、神聖な法螺を吹き鳴らした。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第14節

カウラヴァ軍の戦闘を告げる法螺に応じるようにパーンダヴァ軍も法螺を吹き鳴らします。

ここでも戦いの行く末を暗示する描写があります。

その一つが、ビーシュマによって吹き鳴らされた法螺とは異なり、クリシュナとアルジュナにより吹き鳴らされた法螺は「神聖な(divyaの形容詞)」法螺であるということ。

そしてもう一つが、クリシュナとアルジュナの乗る戦車は火のアグニによってアルジュナに与えられたもので、三界(天界・空界・地界)の至る所を征服できる戦車であるということ。

これらによりパーンダヴァ軍の勝利が約束されているのです。

1-15

पाञ्चजन्यं हृषीकेशो देवदत्तं धनञ्जयः ।
पौण्ड्रं दध्मौ महाशङ्खं भीमकर्मा वृकोदरः ।। १-१५ ।।

pāñcajanyaṃ hṛṣīkeśo devadattaṃ dhanañjayaḥ |
pauṇḍraṃ dadhamau mahāśaṅkhaṃ bhīmakarmā vṛkodaraḥ || 1-15 ||

フルシーケーシャ(クリシュナ)がパーンチャジャニャという名の法螺を、ダナンジャヤ(アルジュナ)がデーヴァダッタという名の法螺を、恐ろしい行為をなすもの、狼の胃袋を持つもの(ビーマ)がパウンドラという名の大法螺を吹き鳴らした。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第15節

ギーターの中で、クリシュナやアルジュナは様々な名で呼ばれています。

ここでは、クリシュナはすべての感覚を司るものという意味のフルシーケーシャという名で描写されています。すべての感覚を司るということは、私たち個人の中にある個々の感情をも司っているということ。すなわち、私たち、生きとしいけるものすべての心の中、心の動き一つ一つにクリシュナが存在しているということなのです。

そして私たちの感覚がすべてクリシュナであるのであれば、私たちはその諸感官を本来の持ち主であるクリシュナに明け渡し、純粋な献身者として生きるべきだということを教えてくれています。このクルクシェートラの戦いにおいては、悲嘆にくれるアルジュナですが、その悲嘆すらクリシュナの一部なのだと、その感情を放棄し、行為に専念することこそが、献身者としての生き方なのです。

1-16

अनन्तविजयं राजा कुन्तीपुत्रो युधिष्ठिरः ।
नकुलः सहदेवश्च सुघोषमणिपुष्पकौ ।। १-१६ ।।

anantavijayaṃ rājā kuntī-putro yudhiṣṭhiraḥ |
nakulaḥ sahadevaś ca sughoṣa-maṇipuṣpakau || 1-16 ||

クンティーの息子ユディシティラ王がアナンタヴィジャヤを、ナクラとサハデーヴァがスゴーシャとマニプシュパカを吹き鳴らした。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第16節

前節に続き、パーンダヴァ軍の戦士たちが法螺を吹き鳴らします。カウラヴァ軍の法螺では単純に「法螺」と書かれている一方、それぞれの持つ戦士の法螺が各々名前を持つのも面白いところです。

ちなみにアナンタヴィジャヤはアナンタ(無限)+ヴィジャヤ(勝利)からなります。
アナンタはヴェーダンタを学ぶ人たちにとっては(アーサナにも「アナンターサナ」というのがありますね)聴き馴染みのある言葉ではないかと思います。

アンタ(制限)のないものがアナンタ。それこそ私たちの本質です。

制限がないとはどういうことでしょうか?
私たちは通常、多くの時間を制限の中で過ごしています。
「あれがしたい」「あそこへ行きたい」「これが欲しい」「こうであって欲しい」。
それらはそうではない自分を解き放って欲しいという願望であり、「ない、ない」の不足感に束縛された自分の裏返しです。
そんな現実の束縛と、願望のギャップに苦しむのです。

だから私たちは何でも自分の好きなことに没頭している時、それは例えば音楽を聞いているときだったり、読書や映画、瞑想、はたまたお酒、薬物、熟睡などで、我を忘れているとき、「ない、ない」に縛られた制限だらけの惨めな自分を忘れられているから、いっときの開放感から幸せを感じられます。

幸せとは制限からの自由・解放。
「ない、ない」からくる不足感から解放されることが幸せ。
それには別に瞑想やお酒やドラッグが必要なわけではありません。

常に満たされている自分に気づくこと。
私たちの本質が制限のない存在だと気づくこと、それこそが幸せ(アーナンダ)なのです。

1-17

काश्यश्च परमेष्वासः शिखण्डी च महारथः ।
धृष्टद्युम्नो विराटश्च सात्यकिश्चापराजितः ।। १-१७ ।।

kāśyaś ca parameṣvāsaḥ śikhaṇḍī ca mahā-rathaḥ |
dhṛṣṭadyumno virāṭaś ca sāyakiś cāparājitaḥ || 1-17 ||

最高の射手カーシ国王、偉大な戦士シカンディン、ドリシタデュムナ、ヴィラータ、無敵のサーティヤキ、

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第17節

1-18

द्रुपदो द्रौपदेयाश्च सर्वशः पृथिवीपते ।
सौभद्रश्च महाबाहुः शङ्खान्दध्मुः पृथक्पृथक् ।। १-१८ ।।

drupado draupadeyāś ca sarvaśaḥ pṛthivī-pate |
saubhadraś ca mahā-bāhuḥ śaṅkhān dadhmuḥ pṛthak pṛthak || 1-18 ||

ドゥルパダ、ドラウパディーの息子たち、勇猛なスバドラーの息子も、それぞれがそれぞれの法螺を一斉に吹き鳴らした。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第18節

シカンディン、ドリシタデュムナはドラウパディーの兄弟、ドラウパディーはアルジュナを含む5王子の共通の妻でしたね。
ドゥルパダは彼らの父です。
スバドラーもアルジュナの妻であり、息子はアビマニュです。

アルジュナを中心としてパーンダヴァ軍がそれぞれに与えられた法螺をそれぞれに吹き鳴らし、カウラヴァ軍の仕掛けた戦いに挑む態度を見せます。

1-19

स घोषो धार्तराष्ट्राणां हृदयानि व्यदारयत् ।
नभश्च पृथिवीं चैव तुमुलोऽभ्यनुनादयन् ।। १-१९ ।।

sa ghoṣo dhārtarāṣṭrāṇāṃ hṛdayāni vyadārayat |
nabhaś ca pṛthivīṃ caiva tumulo’bhyanunādayan || 1-19 ||

そのすさまじい音は天地を反響させて、ドリタラーシトラの息子たちの心を引き裂いた。

『バガヴァッド・ギーター』第1章 第19節

カウラヴァ軍の法螺の音とパーンダヴァ軍の法螺の音、ともに同じ法螺の音ではありますが、パーンダヴァ軍の法螺の音がドリタラーシトラたちカウラヴァ軍の心を引き裂いた一方で、カウラヴァ軍の法螺の音によってはアルジュナたちパーンダヴァ軍の心は引き裂かれません。

それはパーンダヴァ軍にはクリシュナが存在しているからです。クリシュナの庇護にあるパーンダヴァ軍の戦士たちは、どんな災難の最中においても恐怖を感じることはないのです。

それはクリシュナへの絶対的な信頼であり、献身であり愛です。
例えば「神を信じますか?」のように、私たちを守ってくれる存在の有無を信じる信じないのレベルではなく、それを究極的に理解すること、守られていることを知ること、それこそが私たちに絶対的な安心を与えてくれます。

生きていく中で、大変なこと、辛いこと、悲しいことなど様々な災難が私たちに降りかかります。
神様が守ってくれてるんじゃないの?それならそんな辛いことなんて起こらないんじゃないの?と思う気持ちもわかりますが、辛いと思われることすら宇宙からのメッセージなのです。

私たちを成長させるために、私たちに大切なことを教えるために、私たちを守るために、私たちを愛するために、宇宙がくれたとても貴重なギフト。

辛いと思われることが降りかかる中でさえ、自分の心を正しく清く保ち、感謝をしながら謙虚に生きる。それこそが、人間として生を与えられた私たちの生き方なのです。

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