ヴェーダの文化は実に祈りに満ちています。
朝起きて、ベッドから出る前のお祈り、ベッドから出るときのお祈り、沐浴(シャワー)の前のお祈り、食事の前のお祈り、仕事の前のお祈り、一日の終わりのお祈り……
いったい何に祈るのでしょう?
何のために祈るのでしょう?

先生!この間の授業でお祈りが習慣になっているって言ってましたけど、そんなに欲しいものたくさんあるんですか?

うん(笑)
ヴァイラーギャ(無執着、離欲)がヨーガだけど、まだまだ未熟なヨーギーだから、欲しいものはたくさんあるね
いい質問だから、今日はお祈りの意味について考えてみようか。
私たちの望むもの
あなたが望むものは何ですか?
この質問に明確に答えられるということは、自分の目指すべき道が明確になっているということです。
人は「これが欲しい」「あれがしたい」「ああなりたい」と湧き起こる望みに従って、その欲望を満たすべく自分の行う行為を選択します。
それら望まれる全てのものを、サンスクリット語では「भग バガ(bhaga)」と呼びます。
時代や場所、その人が誰であるかにかかわらず、人間が欲しがるもの全てを包括して「バガ」と呼ぶのです。
私たちはその「バガ」を手に入れるために様々な行いをします。
お金を手に入れるために一生懸命働いたり、資格を得るために勉強をしたり、異性から好かれるために筋トレやダイエットをしたり、お化粧の腕を磨いたり。
人それぞれ望みはありますが、それらは決して努力なしには手に入るものではありません。
運
時には何の努力もしてないにもかかわらず、「ラッキー!」といった具合に望みが叶うこともあります。
逆にどんなに努力をしたとしても、望む結果が手に入らないこともあります。
それらは「दैव ダイヴァ、運(daiva)」と呼ばれます。
神を意味する「देव デーヴァ」と語源を同じくする言葉です。
努力をしなければ何も実現しない。これは周知の事実です。
しかし、その努力だけでなく、「運」という要因があることも私たちは知っています。
私たちが運と呼ぶ、私たちの予想を超えたもの。実はそれもしっかりと宇宙の複雑な因果関係に基づくものなのですが、あまりにも複雑すぎて、その因果関係が目に見えて確認できないので、私たちはそれを「運」と呼んでいるのです。
望むものを手に入れるためには?
さて、私たちの望む様々なもの。それらを手に入れるためにはどうしたらよいのでしょう?
例えばお金を手に入れたい、そのために会社で昇進をしたいと思ったらどんな努力をしますか?誰にはたらきかけますか?
(もちろんそれが昇進につながる職種もありますが)一日中一人でゲームをしていてはきっと叶わないでしょう。
(周り周ってということもあるかもしれませんが)隣のお家のおばあちゃんに「俺は昇進したいんだよ!」とお願いしてもきっと叶わないでしょう。
昇進をするために会計の知識を新しく身につけたり、上司に直接お願いしたほうが叶いそうですよね。
理系の大学に合格したいのに、試験科目にはない中国の古典を勉強するのは遠回りです。物理を教わりたいからと、ペットのトイプードルにお願いしてもE = mc2については教えてくれないでしょう。
適切な努力を正しい方向で行うことが、望みを叶えるためには必要です。
では、私たちの努力外にある幸運のためには、誰にはたらきかければよいのでしょう?
宇宙の全てを司るイーシュヴァラ
この宇宙にあるもの全て、この宇宙のあり方を決めている法則の全てを、サンスクリット語では「ईश्वरイーシュヴァラ(īśvara)」と呼びます。
目の前にあるテーブルは、この宇宙の中にあり、この宇宙の一部です。自分の手の平も、この宇宙の中にあり、この宇宙の一部です。このテーブルを動かしたいと望むのなら、宇宙に遍在する圧力という物理の法則を応用して、自分の手を使って押すという行為をとって宇宙に働きかけます。そして、物理の法則を通して、テーブルが移動したという結果を得るのです。
全てを司るイーシュヴァラはもちろん、私たちの理解の及ばない運をも、その複雑な因果関係のもとに司っています。
私たちの努力と行為は宇宙への働きかけです。望みを叶えるためにはこの働きかけが欠かせません。
そして、自分ではどうにもならないこと、自分には予測不可能な要因に関しては、「祈り」という行為で宇宙全体に働きかける。
「祈り」は実に実践的な手段なのです。
実社会で成功している人ほど、この「祈り」の大切さを理解しています。
努力することの大切さを知っているから努力を惜しまない。ただし自分ではどうにもならないこともあるという客観性も理解している。
実社会で生きているからこそ、その経験を通して理解することができる知識です。ただ本から得る知識や想像や瞑想だけからだけでは得られない、実際の自分の行為を通して理解することができる知識です。
結果は選べない
行為をすれば、必ず結果が生まれます。
私たちは行いを選ぶことはできますが、その結果を選ぶことはできません。
宇宙の超複雑なネットワークを完全に理解して、自分の行いに対しての結果を選ぶことは私たち人間にはできません。
「行いは捧げ物、結果は授かりもの」
自分にできる精一杯の努力と祈りを宇宙への捧げ物として行い、どんな結果であろうと宇宙からのギフトとして感謝をしていただく。
それは予想通りのギフトかもしれないし、予想以上、予想以下、もしかしたら予想外のギフトかもしれません。
どんな結果も「私」がもたらしたものではなく、宇宙からのギフトだと謙虚に、感謝をすることができるような心でいることが大切です。
そのギフトが例え望み通りのものではなかったとしても、それは必ず私たちの成長に必要だとイーシュヴァラから与えられたものだと感謝をして受け取る、それが私たちヨーギーの結果の受け取り方です。
あなたが望むものは何ですか?
お金、名誉、地位、美貌、安全、自由。
私たちの望みは限りなく湧き起こります。それは私たちの原動力であり、生きる力でもあります。その望みにより私たちの行為が生まれます。
その行為の前にしっかりと自分の望みを言葉にすること。
「私は○○を達成する為に、今からこの行為をします」と言葉にする。
そうすることで、自分の考えと行動を整えていく。湧き上がっては散漫していく欲望をしっかりと自分が本当に望むものに繋ぎ止めてあげる。
それを「サンカルパ」と呼びます。
自分の望むものを明確にし、その望みを叶えるために努力をし、宇宙全体にはお祈りで働きかけ、その結果はギフトとして受け取る。
その望みが自分だけでなく、周りの人を満たし、世界全体に幸せをもたらすようなものであるといいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。今日も皆様とヴェーダの教えをシェアできることを感謝いたします。
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ