धृ [dhṛ](支える)+ मन् [man](~するもの)= धर्म [dharma](支えるもの)
私たちを支えるもの、私たちを私たちたらしめるもの、それがダルマ(役割、義務)です。
無生物のダルマ
机を机たらしめる役割、義務はその上にあるものを支えること。
その机の役割は、宇宙の法則に従って、いつでも誰にでも平等にはたらきます。
例えば雨の日は憂鬱だからパソコンを載せておくのをやめようといって、雨の日はパソコンを載せませんよなどということはありません。
例えばジョンのことは嫌いだから、ジョンがノートに何かを書こうとする時にはノートを支えてやらないということもありません。
平等にいつでも支えるという義務を担ってくれているからこそ、私たちはそれを机と呼び、必要な時にその机を使うことができます。
水は私たちの渇きを癒し、火は私たちに熱と光を与え、光は私たちに形と色を与える。
ある時は私たちから渇きを奪う水であったり、ある時は冷たくもなる火なんてことがあれば、私たちは水を飲むこと、火を使うことをためらってしまいますよね。
それぞれのダルマを守り存在しているからこそ、私たちは安心してそれらを使うことができるわけです。
生物のダルマ
生物も同様にそれぞれのダルマを持っています。
馬は馬の、ライオンはライオンの、バラにはバラのダルマがあり、その範囲内で行動をします。
私たちを運ぶという役割を与えられた馬もいれば、競走馬として走るという役割を与えられた馬もいるように、それぞれ役割は少しずつ異なるけれど、ある日突然、ちょっと疲れたから次の村まで運んでくれよと他の動物に頼んだり、馬主になってサラブレッドを育てようとする馬はまずいません。
個性こそあれ、自分のあるべきあり方を越える生物はいません。
人間のダルマ
では人間は?
時にお年寄りをいたわり背負って横断歩道を渡ることもあれば、横断歩道を渡る歩みの遅いお年寄りに苛立ってクラクションを鳴らしてみたり。
一見決まった役割なんてなさそうな行動をとってしまう人間ですが、もちろん人間にも人間のダルマがあります。
それは「幸せになること、幸せであることに気づくこと」なのですが、人間には自由意志があるがゆえに、このダルマに関して混乱があるのです。
幸せであることに気づくために、周りと、宇宙と調和するために、私たちはこの体と脳みそを使って、他の人々や動植物を愛したり守ったりする役割を担っています。
そのためにしっかりと考えることができるように、大きな脳みそを与えられています。
それなのに、その脳みそを他人を傷つけるための理屈を生み出すために使ってみたり、嫌なことがあったからと、守るべき我が子にイライラをぶつけてみたり、惰性で本来やるべきことをやらなかったり、他の人と比べて自分が小さな存在だと感じて自分を傷つけたり。
人間はそんな好き嫌いや惰性のプレッシャーに押し潰されてしまっているのです。
そのプレッシャーに押し潰されている自分を受け入れたくないがゆえに、その大きな脳みそで自分を正当化する言い訳を考えて自分を欺く、時に誰かを攻撃してでも自分の正当化を図ります。
そのプレッシャーの中で、自分が取るべき行動を「取る」ことも、「取らない」ことも選ぶことができるのは自由意志があるがゆえ。
好き嫌いや惰性に囚われた「取らない」という選択から自己を解放して、「取るべき行動」すなわちダルマにそった行動を選択するように自由意志を使う。
それが人間のダルマなのです。
ダルマの種類
そんなダルマにはいくつか種類があります。
サーマンニャダルマ
まず前提として僕らは平等に宇宙から愛されているということを理解しなければなりません。
特定の人だけは差別を受けていいとか、傷つけられていいとか、この人にだけは嘘をついていいとか、この人は奪われていいとかはないですよね。
どんな場所であろうと、どんな時代であろうと、どんなシチュエーションであろうと守られるべきダルマ、それを「サーマンニャダルマ(sāmanyaḥ dharma)= 普遍のダルマ」と呼びます。
サーマンニャダルマの中でも最も大切なのがアヒンサー(非暴力)です。
インドでは「アヒンサー・パラモー・ダルマハ」という言葉があります。
「非暴力が一番のダルマである」という意味です。
私たちは「誰からも傷つけられたくない」という知識を持っていて、他の生き物も私と同じように「誰からも傷つけられたくない」という知識を持っているということを理解し、誰に対しても、どんな時でも非暴力であること。それが一番のダルマだと教えてくれています。
ヴィシェーシャダルマ
そして特定の場所や特定の時において守られるべきヴィシェーシャダルマ(viśeṣaḥ dharma)というのもあります。
日本では車は左側通行が守られるべきダルマですよね。そんな日本人がアメリカへ行って、「おれは日本人だからアメリカでも左を走るんだ!」といって運転したら……
結果はおわかりですよね?
戦国時代は相手の大将の首を取ることが望まれたかもしれませんが、この現代でライバル会社に勝つためにの社長の首を取る……
なんてことは許されません。
バスケットボールの試合では手を使ってゴールにボールを入れるからといって、サッカーの試合でいきなり手でボールを掴んでゴールに向かって一直線……
レッドカードで即退場です。
それらは国のルールであったり、信条からくるルールであったり、家庭のルールであったり。自分の属する場所、時代のダルマの中で適切な行動を取らなければ不調和が生まれてしまいます。
スヴァダルマ
そしてその人それぞれに与えられたダルマであるスヴァダルマ(sva dharma)。
一人一人は調和のためにそれぞれのダルマを与えられていると理解すること。
僕たちは自分自身であるだけで、そこには他の誰にも代わりのできない立派な役割があり、その役割は調和のために与えられた役割であると理解すること。
バラが、バラであるが故に僕たちをその美しさや優雅さで魅了するのに、「私は本当はひまわりでありたいの」と思ったら、その自己の輝きの価値を感じられなくなり苦しくなりますね。
僕たちも、ただ自分であるだけで愛される、素晴らしい存在なのに、誰か他の人になりたいと思ったら、そうでない自分を否定することになり、苦しみが生まれます。
バガヴァッドギーターはこう言います。
śreyān sva-dharmo viguṇaḥ para-dharmāt svanuṣṭhitāt |
sva-dharme nidhanaṁ śreyaḥ para-dharmo bhayāvahaḥ ||
「不完全であっても、自己の義務(ダルマ)の遂行は、よく遂行された他者の義務に勝る。自己の義務に死ぬことはより幸せである。他者の義務の遂行は、恐怖をもたらす。」
バガヴァッド・ギーター 3章35節
何か自分以外の他のものになろうと思ったら苦しくなるんです。
私のダルマって?
さて、では、私のダルマって何?
私のダルマとはその日その日、目の前のやるべきことをやっていく、それに他なりません。その目の前のことを、その場その場で「Best of my knowledge(私の知る限りでベスト)」で向き合っていく。
それが私のダルマです。
私のやるべきことは他にある!といって家事を放棄したり、お金を稼ぐことをやめたり、
「自分の役割って何?」
「生きる意味って何?」
と自分探しの旅に出たりする必要はありません。
ダルマは今ここにないものでもなければ、どこかに探しに行くものでもないのです。
その時その時に、自由意志を、惰性や好き嫌いから解放してあげて、やるべきことを選ぶ、それがダルマに沿った生き方です。
そんな生き方を続けていると、自然と正しい選択が苦も無く出来るようになります。
怠けたいけどやる、とか、嫌だけどやるとかの経験が自分の自信になっていく。
そんな人を、人間として精神的に成長した人と呼ぶのです。
人間の特権である「自由意志」を意識的に使い、精神的な成長を遂げる、
つまり「心を磨く」ことが、
わざわざ人間として生まれた目的なのです。
ヴィシェーシャダルマの中で、自分に与えられた、目の前にあるスヴァダルマに全力で向き合い、サーマンニャダルマに生きる。
宇宙の一部としての私は、その宇宙の中でとてつもない愛を注がれている存在だと気づくこと。
そんな宇宙と調和すること。
それがダルマ(調和、ハーモニー)なのです。